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歴史上のラーマ・ラージュ~スミット・サルカールの著書より

史実は物語より奇なり。実在したラーマ・ラージュは、映画RRR以上に劇的な人物だったようです。前回にひき続き、スミット・サルカール著『新しいインド近代史~下からの歴史の試みI』(研文出版、1993年、321~22頁)より該当部分を抜粋して紹介します。(一部分かり易さのために言葉を変えたり文字の色を変えています。)


 国民会議派の非協力運動(1919~21)は期せずして、たくさんの地域で下層階級の原初的な運動を誘発することになった。(中略)

 だが、民衆の戦闘性が継続していることのもっとも印象的な証左が示されたのは、ゴーダーヴァリ河の北側の「ランパ」地域においてであった。この地域はつねに不穏な形勢を示す半部族民地域で、1922年8月から24年5月まで正真正銘のゲリラ戦の舞台となった。指導者はアッルーリ・シーターラーマ・ラージュであった。この実に非凡な男は、アーンドラでは民衆世界の英雄となったが、他の地域ではほとんど知られていない。 

 24年8月の当局の報告に生き生きと記録されているところによると、彼らの不満は、基本的には古くから見られたものと同じで、金貸しの搾取と、焼畑耕作や古来の放牧権を制限する森林法とに向けられていた。直接的なきっかけをつくったのは、評判の悪い徴税役人、グーデムのバスティアンだった。彼は無償で部族民の労働を徴発して、林道を建設しようとしたのである。ところがこの反乱では、指導者になったのは土地の首長ではなく、よそ者だった。このよそ者は、15年来部族民のあいだを歩き回って、星占いの力と病気を癒す力があると主張し、非協力運動に鼓舞されて、五人委員会を創始し禁酒運動を始めた。この運動の中には、ホブズボームだったら「原初的反乱」と呼ぶであろうような諸要素と近代的民族主義とが、魅惑的に結合されていた。

ランパ蜂起の舞台となった地域の近くには、現在トライブ博物館があります。


 ラージュは自分の身体には弾丸は当たらないと主張したとされ、反乱の宣言には、ヴィシュヌ神の化身であるカルキの出現が迫っている、とうたわれていた。ラージュは、反乱の最中の地方役人との会合で、「ガンディー氏を高く評価した」が、「暴力は必要である」と見なし、「ヨーロッパ人がいつもインド人を引き連れ、彼らに取り囲まれており、そのインド人を殺したくなかったので、ヨーロッパ人を撃つことができなかった」のは残念だったと述べた。そうして22年9月24日のダマラパッリの待ち伏せでは、反乱者たちは、実際、インド人の先遣隊をやり過ごしてから、二人のイギリス人将校を撃ち殺したのである。イギリス人は、ゲリラ戦のおそるべき戦術家としても、ラージュに不本意ながら感嘆せざるを得なかった。彼は警察署を襲って部下を武装させた。そして彼の100人ほどの反乱集団は、「およそ2500平方マイルの地域に散らばる山岳民の大部分の」共感をかちえ、水の中の魚のように自由に動き回ったようである。マドラス政府は、マラバール特別警察隊とアッサム・ライフル連隊の応援を得、150万ルピーをかけて反乱を鎮圧した。ラージュは24年5月6日に捕らえられた。「逃亡を企てた」ので射殺した、という報告がすぐにあがって来た。不愉快だがお馴染みの手法である。抵抗が最終的に押し潰されたのは24年9月のことだった。(おわり)



左は射殺後に撮影したと伝えられる、ラーマラージュ唯一の現存する写真(Dr. J. Mangamma, Alluri Sitarama Raju, A.P. State Archives, Hyderabad, 1983 より)。右は1986年にインド政府によって発行された切手。左の写真をもとに肖像を作製したと思われる。