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‛部族’反乱~スミット・サルカールの著書より

RRRの題材に取られたアッルーリ・シーターラーマラージュとコムラム・ビーム以外にも、イギリス植民地時代には多くの‘部族’反乱がありました。スミット・サルカール著『新しいインド近代史~下からの歴史の試みI』(研文出版、1993年、70~71頁)には、アッルーリ・シーターラーマラージュによる反乱の前史にあたるアーンドラ地方の他の反乱についての記述があるので、それをご紹介します。(以下抜粋。一部分かり易さのために言葉を変えたり文字の色を変えています。)


 ヴィシャーカパトナム特別行政区で1900年に起こった例では、コッラ・マッラヤという名のコンダ・ドラ部族の男が「啓示を受けたと主張し・・・・・・4,5千の手兵を糾合した。・・・・・・彼はパーンダヴァ族の5人の兄弟の生まれ変わりであり、彼の幼い息子はクリシュナ神に他ならない。彼はイギリス人を追い出し、自ら国土を統治することになるだろう。そのため彼は信者を竹で武装するが、呪術によって竹は鉄砲に変わり、官憲の武器は水に変わるだろうと宣言した」。その結果は予測できるものだった。警察は「暴徒」のうち11人を射殺し、60人を裁判にかけた。そのうち2人は絞首台にかけられた。

 隣接するゴーダーヴァリ特別行政区の丘陵部は、1879~80年に、はるかに手ごわい反乱の舞台となった。反乱の中心はチョーダヴァラムの「ランパ」地方にあって、その丘陵の部族コーヤ部族とコンダ・ドラ部族の首長たちは、40年、45年、58年、61年、62年に、彼らの領主(13年にイギリスと協定を結んだ領主の一族)にたいして蜂起していた。79年3月の大反乱は、木材と放牧に課した税を引き上げようとした領主の策動に原因があった。他方、警察による強制取立て、椰子酒の自家醸造を禁止する新しい消費税条例、低地の商人と金貸しによる搾取と森林における伝統的な焼畑農耕の禁止は、不平に輪をかけるものであった。反乱は最高潮に達したとき少なくとも5千平方マイルの地域に広がり、80年11月にマドラス歩兵6個連隊が投入されてやっと鎮圧されたのである。

 86年には同じ地域で、もうひとつの別の反乱があった。反乱者たちは自らを「ラーマの軍隊(ラーマ・ダンドゥ)」と呼んだ彼らの指導者のひとりであるラージャナ・アナンダイヤはジェイポールの藩王に対して訴えかけたが、それは「民族主義の原型」ともいえる興味深いものである。「もしイギリス人が我々の国土にとどまるなら、それはよいことでしょうか。我々は―――イギリスと戦うべきです。ロシア人もイギリス人を悩ませています。もし人員と武器の援助が私に与えられるなら、私はラーマの役割を演じてみるつもりです」。ラーマーヤナ伝説が用いられてるが、それはラーマの治世(ラーム・ラージャ)という後代のガンディーの概念とはかなり違っている!


 上の記述にある1879~80年の反乱は第1次ランパ蜂起と呼ばれています(アッルーリ・シーターラーマラージュが率いたのは第2次ランパ蜂起)。これらの先立つ反乱は多くの面でのちのアッルーリによる反乱の原型、先取りと言えます。(次につづく